小島地蔵群から少し上ったところに小さな欄干があります。
確かにここは小さな川が流れており、橋があったのでしょう。
昔の石橋の名残なのでしょうね。
この道の左側は現在の車道であり、弥生が丘バス停に通じる、
一般に茂木街道とよばれている現在の車道です。
但し、それは明治時代以降のこと。
電柱の角を右に登っていく道がそれ以前、
つまり江戸時代からの茂木街道です。
つまり江戸時代からの茂木街道です。
今回は当然そちらを歩くことにします。
ちなみに、左の車道はこんな感じです。向こうに「愛宕山」が見えますね。
昭和初期までは沿道に桜が続いており、別名「桜街道」と呼ばれていました。
毎年、春のハタ上げの頃になると、
ハタ上げの会場となる「唐八景」に急ぐハタ見物の客と桜見物の客で
ゴッタ返しだったと、よく父に聞かされていました。
なるほど、私の幼い時分には沿道に「飴屋」や「雑貨屋」が軒を連ねていました。
いよいよ、「ピントコ坂」です。 ふり返ると長崎の街が望めます。
そうそう、この辺は幼い頃、祖父に連れられて、よく散歩した思い出の場所です。
何が思い出かと言うと、この坂の左側に木の根っこが見えるでしょう。
これです。昔はコンクリートもなくて、もっと根っこの下の部分がむき出しでした。
ある日、祖父がここで何やら根っこの一部を切り取って、大事そうに持ち帰ったのです。
後日、それはあるものに使われるのですが・・・。
後日、それはあるものに使われるのですが・・・。
それがこれです。
そう、「水屋」のたなを支える支柱として、ここの根っこを使ったのでした。
今では、
私の幼い日の思い出として、
大工だった祖父の大事な形見として、
世界にひとつしかない「水屋」として、
40数年たった今も、ひっそりと我が家の片隅を飾っています。
私にとっては
「ピントコ」の名の由来よりも、
「愛八」さんの名前よりも、大事な大事な思い出の場所なのです。
「ピントコ」の名の由来よりも、
「愛八」さんの名前よりも、大事な大事な思い出の場所なのです。
次回へつづく・・・。
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