ライオンの塔を後にし、さらに130mほど上っていくと・・・。
向かって左手の墓塀に「傾城塚(けいせいつか)」の案内表示があります。
ここは、ピントコ坂の名前の由来となった、何旻徳(カピントク)と遊女 登倭(おとわ)の
恋の果ての死を哀れんで、里人たちが碑を建て、傾城塚と呼ばれたものです。
恋の果ての死を哀れんで、里人たちが碑を建て、傾城塚と呼ばれたものです。
すっかり荒れ果てて、訪れる人も少ないのでしょうが、ここで左の碑石に刻んである碑文を
紹介しましょう。
「登倭(おとわ)は丸山越後屋の娼妓で才色すぐれ、客には分け隔てなく接した。
明の商人 旻徳(ピントク) が一夜登楼し、登倭と交歓、のち、度々交えて遂に
偕老同穴の契りを結んだ。旻徳は後、国禁を犯して処刑された。
刑の日、登倭はその首を官に乞い、小島郷に葬り自刃して之に殉じた。元禄3年
(1690)某月である。
同郷人で桐山貞四郎、田中勝三郎等20名が相計って碑を墓側に建てた。
私に其の碑文を乞うたのは、この事が後世に伝わらなくなるのを惜しむためである。
明治20年3月15日 浅井日昇 謹記」
明の商人 旻徳(ピントク) が一夜登楼し、登倭と交歓、のち、度々交えて遂に
偕老同穴の契りを結んだ。旻徳は後、国禁を犯して処刑された。
刑の日、登倭はその首を官に乞い、小島郷に葬り自刃して之に殉じた。元禄3年
(1690)某月である。
同郷人で桐山貞四郎、田中勝三郎等20名が相計って碑を墓側に建てた。
私に其の碑文を乞うたのは、この事が後世に伝わらなくなるのを惜しむためである。
明治20年3月15日 浅井日昇 謹記」
ここでいう作者の浅井日昇氏は、私の菩提寺である長照寺の中興開基と称えられる名僧であります。
ちなみに、現住職は「浅井円誓」氏です。
ちなみに、現住職は「浅井円誓」氏です。
ピントコ坂の由来には諸説あります(坂を上るときの掛け声「ピントコドッコイショ」からきた等)
が、私はこの碑文の解説を読んだとき、まちがいなく何旻徳(カピントク)の名前からきたものだ
と確信しました。
ここから、長崎の街が一望できます。
昔は左右の民家もなく、もっと見晴らしのいい場所だったのでしょうね。
が、私はこの碑文の解説を読んだとき、まちがいなく何旻徳(カピントク)の名前からきたものだ
と確信しました。
ここから、長崎の街が一望できます。
昔は左右の民家もなく、もっと見晴らしのいい場所だったのでしょうね。
さらに、40mほど上ると道左に油屋町の供養塔が建っています。
ここから60mほど上ると、平松地蔵があります。
ここは、道路拡張に伴い、諸方の地蔵が集められた場所です。
左側は、長崎出身の力士 初瀬川の墓であり、
また一番右端は、同じく長崎俳人の二宮岱雲の自然石の句碑です。
そして、さらに300mほど上ると・・・
角に小さな地蔵祠(筆地蔵)があり、
その正面が長崎南高正門です。
ここは、岩永氏によれば、正月二日に書初めとして、お地蔵さまに奉納していたそうです。
そして、ピントコ坂の案内板の矢印が下を向いている通り、
ここがピントコ坂の終点になります。
ここがピントコ坂の終点になります。
ああ・・・やっと、母校 南高まできたぞw
次回へつづく・・・。
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