先日、くじゅうへ朝駆けした際に、
いつものように、玖珠の「味楽」でからあげを買って帰る際、道を間違ってJR沿いの通りに出た。
いつものように、玖珠の「味楽」でからあげを買って帰る際、道を間違ってJR沿いの通りに出た。
しばらく走ると、右手に妙な構造物があるのに気づいたので、
クルマを停めて近づいてみると、以前、産業遺構を調べて際に見つけた「機関庫」だった。
クルマを停めて近づいてみると、以前、産業遺構を調べて際に見つけた「機関庫」だった。
大分にあるのは知ってたが、豊後森駅だとは、つゆ知らず。
あわててクルマに戻り、カメラを携えて敷地内に入ってみました。
関連記事で検索してみると、ここは、
(当時の写真です)
「鉄筋コンクリート造りで、SLの向きを変える円形の転車台を中心に扇を広げた形をしており、
当時最高の技術を用いて建築された。」
当時最高の技術を用いて建築された。」
とあります。
また、
「車庫は久大線が全線開通とともに業務を始め、広さは1734平方メートル。
最盛期の23年には蒸気機関車25両の修理が行われ、250人の職員がいた。
機関車は60―70キロごとに石炭や水の補給基地が必要で、
久大線では豊後森が補給基地の機関区に選ばれた。」
最盛期の23年には蒸気機関車25両の修理が行われ、250人の職員がいた。
機関車は60―70キロごとに石炭や水の補給基地が必要で、
久大線では豊後森が補給基地の機関区に選ばれた。」
「戦時中は軍事輸送の拠点となったため、米軍の攻撃目標にされ、壁面には機銃掃射の弾痕が
今も残っている。」
とあります。
原形のまま残る機関庫としては九州唯一、全国的にも14年に造られた京都の梅小路機関庫と
ここのみだそうです。
ここのみだそうです。
しかし、こういう公園として保存され「近代産業遺産に認定」されるまでは、さぞや苦闘の連続だった
のでは、とその有志の方々の苦労が偲ばれます。
のでは、とその有志の方々の苦労が偲ばれます。
モノは違うけど、伊万里の「川南造船所跡」は、どうして遺せなかったかなあ・・・
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