シブヤン海にて、あの、
長崎で建造された戦艦 武蔵が発見されました。
武蔵と言えば、私にとっても特別の響きをもつ船の名前なんです。
それは、
当ブログで何度か登場している私の祖父のことですが、
以前ご紹介した通り
過去記事ですよ~
①http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62537642.html/
②http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62558700.html/
③http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62608932.html/
②http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62558700.html/
③http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62608932.html/
その祖父の、もうひとつの自慢が、
あの、戦艦 武蔵の艦長室を手掛けたこと。
数ある内装物件において、船舶はもっとも豪華かつ贅を尽くしたものですが
その中でも、艦長室というのは別格中の別格!
その上、旧帝国海軍旗艦の艦長室ともなれば、大工の腕も一流中の一流でなくてはなりません。
その艦長室の内装を一人で手掛けたというのです。
この話を聞かされていたのは、まだ私が小学生の頃。
如何にすごいことかの判断もよくつかず、半ばぼーっとした感じで、ただ耳に残っているという程度の
ものでした。
![イメージ 1](https://takeppe-blog.com/wp-content/uploads/2019/import_photos/20190803/20190803224850.jpg)
そんな中、月日は流れ、
その祖父が亡くなった8年後のこと。
社会人として就職した一年目、
最初に配属された大阪の現場で出逢った、ある大工の職長さんがいました。
名を「S谷」さんと言い、当時すでに60歳を超えていたと記憶しています。
この方、後頭部のあたりが大きく陥没したような感じで、いつも気になっていたのですが、
ある日、思い切って尋ねてみると、
原爆でやられた、とのこと。
じゃあ、長崎の出身?
ということで意気投合!
次第にいろんな話ができるようになたある日、
この「S谷」さんが、
自分は戦艦 武蔵の建造に立ち会っていたというのです。
![イメージ 2](https://takeppe-blog.com/wp-content/uploads/2019/import_photos/20190803/20190803224855.jpg)
思わぬ展開に、祖父の昔話を思い出した私は、私の祖父も武蔵に関係していたんですよ。
と告げると、
「S谷」さんは、その人は知らない。
でも、自分も含めて、よくお世話になった、同じ長崎の大工で、艦長室を手掛けていた人がいた
と言うではありませんか!
私は、その人は「S村」と言いませんでしたか?
と問うと、
なんで知ってるの? と、とても驚かれました。
それもそのはず。私の姓とは違う名前だったのです。
私は、
その人は私の祖父です。
takeppe家に養子で婿入りしたので、その「S村」が本姓なんですよ。
というと、突然、その「S谷」さんは涙を流して私の手を取るではないですか。
「S村」さんには本当にお世話になった。
自分やまわりの者も含めて、タバコやおにぎりなどをいつももらってたんだと。
当時は、威張り散らす班長が多い中で、
私の祖父はとてもやさしく、いつも気にかけてくれていたと。
私の祖父の昔話では、
当時、武蔵の建造には、人手が足りず、囚人なども多く動員してたとのこと。
艦長室を手掛ける傍ら、そういった人たちを使って、外装の磨きなども指示してたのが
私の祖父だったらしいのです。
「S谷」さんは、その囚人の直接のまとめ役を私の祖父から任されていたとのこと。
私は、当時、あまりの偶然とその出会いに言葉もありませんでした。
![イメージ 3](https://takeppe-blog.com/wp-content/uploads/2019/import_photos/20190803/20190803224859.jpg)
幼いころ、半信半疑で聞いていた祖父の昔話が「S谷」さんとの出会いで、
真実の物語として私の中によみがえった瞬間でした。
余談ですが、
主砲の長さがどれくらいあるのか、
調べてみたくても監視の目がきつくて直接測るわけにはいかない。
そこで一計を案じて、
夜風に吹かれて散歩するふりをして歩数を数えた、との話も、今、思い出しました。
今となっては、もう、その歩数も忘却の彼方・・・。
あれから30年。
そんな色褪せた昔話たちを、
今また、
大阪の地で働く私に思い出させてくれたのが、武蔵発見のニュースだったのです。
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