シブヤン海にて、あの、
長崎で建造された戦艦 武蔵が発見されました。
武蔵と言えば、私にとっても特別の響きをもつ船の名前なんです。
それは、
当ブログで何度か登場している私の祖父のことですが、
以前ご紹介した通り
過去記事ですよ~
①http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62537642.html/
②http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62558700.html/
③http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62608932.html/
②http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62558700.html/
③http://blogs.yahoo.co.jp/take63720215/62608932.html/
その祖父の、もうひとつの自慢が、
あの、戦艦 武蔵の艦長室を手掛けたこと。
数ある内装物件において、船舶はもっとも豪華かつ贅を尽くしたものですが
その中でも、艦長室というのは別格中の別格!
その上、旧帝国海軍旗艦の艦長室ともなれば、大工の腕も一流中の一流でなくてはなりません。
その艦長室の内装を一人で手掛けたというのです。
この話を聞かされていたのは、まだ私が小学生の頃。
如何にすごいことかの判断もよくつかず、半ばぼーっとした感じで、ただ耳に残っているという程度の
ものでした。
そんな中、月日は流れ、
その祖父が亡くなった8年後のこと。
社会人として就職した一年目、
最初に配属された大阪の現場で出逢った、ある大工の職長さんがいました。
名を「S谷」さんと言い、当時すでに60歳を超えていたと記憶しています。
この方、後頭部のあたりが大きく陥没したような感じで、いつも気になっていたのですが、
ある日、思い切って尋ねてみると、
原爆でやられた、とのこと。
じゃあ、長崎の出身?
ということで意気投合!
次第にいろんな話ができるようになたある日、
この「S谷」さんが、
自分は戦艦 武蔵の建造に立ち会っていたというのです。
思わぬ展開に、祖父の昔話を思い出した私は、私の祖父も武蔵に関係していたんですよ。
と告げると、
「S谷」さんは、その人は知らない。
でも、自分も含めて、よくお世話になった、同じ長崎の大工で、艦長室を手掛けていた人がいた
と言うではありませんか!
私は、その人は「S村」と言いませんでしたか?
と問うと、
なんで知ってるの? と、とても驚かれました。
それもそのはず。私の姓とは違う名前だったのです。
私は、
その人は私の祖父です。
takeppe家に養子で婿入りしたので、その「S村」が本姓なんですよ。
というと、突然、その「S谷」さんは涙を流して私の手を取るではないですか。
「S村」さんには本当にお世話になった。
自分やまわりの者も含めて、タバコやおにぎりなどをいつももらってたんだと。
当時は、威張り散らす班長が多い中で、
私の祖父はとてもやさしく、いつも気にかけてくれていたと。
私の祖父の昔話では、
当時、武蔵の建造には、人手が足りず、囚人なども多く動員してたとのこと。
艦長室を手掛ける傍ら、そういった人たちを使って、外装の磨きなども指示してたのが
私の祖父だったらしいのです。
「S谷」さんは、その囚人の直接のまとめ役を私の祖父から任されていたとのこと。
私は、当時、あまりの偶然とその出会いに言葉もありませんでした。
幼いころ、半信半疑で聞いていた祖父の昔話が「S谷」さんとの出会いで、
真実の物語として私の中によみがえった瞬間でした。
余談ですが、
主砲の長さがどれくらいあるのか、
調べてみたくても監視の目がきつくて直接測るわけにはいかない。
そこで一計を案じて、
夜風に吹かれて散歩するふりをして歩数を数えた、との話も、今、思い出しました。
今となっては、もう、その歩数も忘却の彼方・・・。
あれから30年。
そんな色褪せた昔話たちを、
今また、
大阪の地で働く私に思い出させてくれたのが、武蔵発見のニュースだったのです。
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