「八丁車」地区にある高平橋です。
ここから、国道側に行くと東小島方面へ抜ける道があります。
その途中、道の左側に赤レンガの塀が見えてきますが、
ここは、昭和の時代にあった「石橋醤油」の跡地です。
ここから、次の写真に出てくる「鳴川橋」までの一帯は広場であり、
岩永氏によると「学校ん馬場」と呼ばれ、
なんと、この醤油工場の場所が、母校 小島小学校の誕生地であったそうです。
時は明治19年のことです。
ここの社長が現在地移転の際に尽力されており、その石碑も校門右横に建立されています。
岩永氏によると「学校ん馬場」と呼ばれ、
なんと、この醤油工場の場所が、母校 小島小学校の誕生地であったそうです。
時は明治19年のことです。
ここの社長が現在地移転の際に尽力されており、その石碑も校門右横に建立されています。
これが「鳴川橋」です。
この橋を渡り、すぐに右折し、
この突き当たりを左に入って行くと、
「鳴川橋」から上流を見ると、一際、川底の深い流れが見えます。
ここは、私が小学校の頃には既に、左手に染物屋さんがあり、流水を利用して
染物を洗っていました。
当時、水が汚かった割には、幟などが染められていた様子をよく覚えています。
昔、この岩の向こう側には立派な建物の「田中湯(銭湯)」がありました。
今回、写真を撮りたかったのですが、
もう往事の建物は解体されて更地となっていました。
このあたりは清水寺の周辺にふさわしい、なんとも威厳のある建物が多かったのを覚えています。
今回、写真を撮りたかったのですが、
もう往事の建物は解体されて更地となっていました。
このあたりは清水寺の周辺にふさわしい、なんとも威厳のある建物が多かったのを覚えています。
この辺りの川に出っ張った建物は、戦後の混乱期に建てられたものです。
清水寺の近くまで行くと、解体された建物跡にこんなレンガ塀が残っていました。
これは、先ほどの石橋醤油工場跡地と同じ年代のレンガのように見えます。
なにか、古い建物の名残なんでしょうね。
粋な造詣がまだ残っていました。
そして、ついに終点、正覚寺下電停付近に着きました。
ここは、現在は暗渠になっていますが、
昭和43年に電車が思案橋から正覚寺下まで延伸される前までは
「玉帯橋」という橋がかかっていたそうです。
なんでも、「眼鏡橋」「大手橋」に次いで古い橋だったそうです。
これで、私が生まれ育った「小島の里」を一通り歩き終わりました。
岩永氏との出会いから、思わぬふるさと巡りが始まりましたが、
これも氏の著書「小桃源 小島の里」に出会ったからです。
氏の綴った通りの場所を、自分の目と足で確かめて行く作業は
とても心地よいものでした。
岩永氏との出会いから、思わぬふるさと巡りが始まりましたが、
これも氏の著書「小桃源 小島の里」に出会ったからです。
氏の綴った通りの場所を、自分の目と足で確かめて行く作業は
とても心地よいものでした。
氏に感謝すると共に、次回からはTakeppe版「街道をゆく」を綴り、
更に小島一帯の歴史を極めたいと思います。
更に小島一帯の歴史を極めたいと思います。
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